Word Piece 3

Tak.'s Blog

道具と方法論を持たなかった父の断片への敬意

父の遺品を整理していて、父が膨大な量の文章を書き残していたことを知る。

正確にいうと、文章というよりも文章の断片。書こうとした論文の原稿、書こうとした本の原稿、やろうとした翻訳の原稿、まとめようとした考察の原稿、その下書き、メモや覚え書き、そして資料。

父がこれほどの知的活動をしていたことについて、あるいは知的活動への意思を持っていたことについて、今さらながら衝撃を受ける。

でも父は、完成したアウトプットを何一つ残していない(ぼくや母が知るかぎり)。

膨大な断片を眺めているうちに、意思はあっても方法論を持たなかった父の知的活動が、その量と複雑さと流動性の前に破たんしたことが、ありありと感じられる。

父がアウトライナーを持っていたらと思う。

アウトライナーじゃなくてもいい。書こうとしたことや考えたことの膨大な断片を取捨選択し、組み立て、位置づけることを助けてくれる、現代的な道具と方法論を父が持っていたら。

本当は、父の手元にはちゃんとそれがあった。

ぼくが結婚して家を出た後、ぼくが使っていた古いMacは父のものになった。

父は(評論家をしていた学生時代の友人に教えられながら)そのMacを使った。父の残したある時期の原稿は、EGWord による縦書き二段組で印刷されている。

そのMacには、EGWordの他にActaやInspirationやMOREが入っていた。ぼくを虜にした初期のMacのアウトライナーたちだ。その意味や使い方を知る機会を父は持たなかった。

とはいえ、仮にそんな機会があったとしても、父は興味を示さなかっただろうという気もする。父にとっての文章を書くことは、最初から最後までマス目を順番に埋めていくことだった。

EGWordはおそらく印刷・清書機械として使われていたのだと思う。それでも、自分の書いた文章が活字として印刷されることの喜びを父は感じていたはずだ。それを思うとなんとなく微笑ましいような悲しいような、微妙な気持ちになる。

そんなムズムズするような感覚にもかかわらず、父の残した文章の断片の量と混乱と意思に、ぼくは敬意を抱かずにはいられなくなった。

その敬意の正体を、ぼくは父にも母にも説明できない。アウトライナーにサポートされて、ここに少しだけ書けるくらいだ。

「必要に応じて人を押しのけ、優位なポジションを確保できる自分」

人に道を譲るクセがある。

狭い歩道で前から人が来ればたいてい道をあけるし、ドアは後ろの人のために開けて待っているし、エレベーターではほとんど必ず最後に人が降りるまでドアの脇で「開」ボタンを押している。

とりわけ良い人だったり、洗練されたマナーを身につけているというわけではぜんぜんなく、子どもの頃からそういうクセがついているだけ。

アメリカで育ったことによって、何かしら動機付けられた面はあるかもしれない。

それはそれとして、日本では道を譲られたりドアを開けて待ってもらっていることに、気づきさえしない人がけっこういることは驚くばかりだ(年配の、特に男性は気づかない確率が高いように思える。もちろん、そうでない人もたくさんいる)。

首都圏の朝のラッシュアワーの電車で、そんな姿勢は通用しない。

降りる人を先に降ろし、乗る人を先に乗せていたら目の前でドアが閉まってしまって、会社に遅刻したことがあった。

忘れもしない、東急東横線の横浜駅。大学を卒業して就職した直後の4月だった。

その日からぼくは新しい自分になった。必要に応じて人を押しのけ、優位なポジションを確保できる自分だ。

やろうと思えば、そのくらいのことは人並みにできる、とぼくは思った。人はそれを「成長」と呼ぶだろう。

最近、ひさしぶりにラッシュアワーの電車に乗って、ラッシュ時スキルがすっかりさび付いていることに気づいて(そして少しほっとして)思い出した話。

他人のクリア

クリアでない人と話をする悲しさともどかしさと苛立ちについて。

今日こそは苛立たないと自分に言い聞かせながら出かける。でも、圧倒的にクリアでない人の前で、それは通用しない。

しかしもちろん、他人がクリアでないことに苛立つ権利なんかない。

他人がクリアでないことに苛立つのは、他人がクリアでないことに対する自分のあり方がクリアでないからだ。

クリアについて2018

ずいぶん長いこと、「クリア(clear)」というのが、個人的な生活と人生のキーワードみたいになっている。クリアというのは「明快な、はっきりした」というような意味だ。

年齢を経るほど、その重要性についての確信はより強いものになる。もちろん、自分がなかなかクリアになれないから、そう思うのだ。

「(いわゆる)タスク管理」をするのは何のためだろうと考える。

たとえば、効率的に物ごとをこなしたい。ストレスフリーに生きたい。大事なことにもっと時間を使いたい。そんな理由をすぐに思いつく。もちろん、そのどれもが正解だと思う。

でも、自分自身がクリアでありさえすれば、そのすべてが実現できる、とも思う。

だから「(いわゆる)タスク管理」の目的は、究極的には「クリアであること」なのだ。

クリアであるための大きなアウトラインを作っている。

「作った」と過去形でないのは、そのアウトラインが今もどんどん変わり続けているからだ(そのことについての長い文章を書いているそばから変わってしまうので、ちょっと困っている)。

クリアであってもお金が儲かるわけではない。
好きな人が振り向いてくれるわけでもない。
保育所に空きができるわけでもない。

でも、クリアであれば、必要なときに後悔のない判断をすることができる(「正しい判断」とは言わない)。

クリアであれば、心置きなく全力を尽くすことができる。

クリアであれば、間違ったときに他人や環境のせいにしないで悔し泣きすることができる。

そんなふうに生きてみたい。

そして、これらのことを教えてくれたのもまた、アウトラインだ。

謙虚であるのが難しいこと

おそらく、謙虚であることがもっとも難しい物ごとのひとつは、自らの肉体的・精神的キャパシティだ。

他の面ではとても謙虚な人が、そのことになるとしばしばその謙虚さを発揮しない。

自分に与えられたキャパシティだと当たり前のように思っているものの多くは、「今のところたまたま手元にあるもの」にすぎない。しかもたいていは「若さ」と連動している。そのことに人はなかなか気づけない。

(人は持っていないものには敏感だが、持っているものには鈍感だ)

もちろんそれは宝物だし、人生にはそれを使うべき場面がある。でも、手元にそれがあることを当然の前提として湯水のように使い続けることは、たぶん傲慢だ。

「自らの肉体的・精神的キャパシティに対して謙虚さを発揮しない」ことを、より洗練された言葉で「無理をする」という。

ホテル街

ある日の午後、某駅近くのラブホテル街を歩いていた(ときどき仕事をするカフェから駅へと向かう近道なのだ)。

前方のホテルから、20代前半くらいと思われる、特に派手でもなく地味でもない服装の女の人が出てきた。

慣れた感じでひとり、でもちょっと気配を薄くした感じ。

おそらく派遣型風俗の人で、仕事を終えて帰るところだったのではないかと思う。

彼女は、ちょうどぼくの前を歩いていた、若いスーツを着た男3人組の目の前に出てくる形になった。

あんまり、よくない予感がした。

案の定、3人組は彼女に向かってひゅーひゅーという感じではやし立てはじめた。彼女は無視して歩き続けたが、3人組は調子に乗った感じで何度も汚い言葉を浴びせては、お互いの言葉に大笑いする。

とても嫌な感じだ。

集団で内向きに受けを狙って、外部の個人を侮辱したり攻撃したりする。いちばん嫌いなタイプの振る舞いだ。

彼女は少しだけ足を速めたかもしれない。それでも振り向くことなく歩き続けた。

3人組は、なおもしつこく彼女の後をついていき、ついにひとりが彼女の正面に回って立ちふさがるようなポーズを取った(そのときの下品な顔を世界中にさらしてやりたい)。

ぼくは決してまったくケンカの強い人間ではないけれど、これはちょっとがまんができない気がする。そう思ったとき、「おい、いいかげんにしとけ」という声が響いた。

怒鳴り声というほどでもない、少し大きめの声というぐらい。でも、低く通るその声は、その場の全員にはっきりと聞こえた。

声の主は、道路脇でトラックから荷下ろしをしていたお兄さんだった。

真冬なのに上半身はTシャツ一枚。それほど背は高くないけれど、その腕の太さと胸の厚さは、ちんけな3人組など相手ではないことが誰の目にも明らかだった。

3人組はスイッチを切ったように沈黙した。そして下品な笑いを半分くらい顔に残したまま、「今回は許してやる」とも「覚えとけよ」とも言わず、次の角を曲がって消えた。

彼女はしばらく早足のまま歩き続けてから立ち止まり、振り返った。Tシャツのお兄さんは、何ごともなかったように仕事を続けていた。

ぼくはそのまま彼女の前を通りすぎた。一瞬、彼女と目があった気がした。

表通りに出るところで振り返ってみたが、もう彼女の姿は見えなかった。

ノスタルジック

横浜駅のJRの切符売り場で30代くらいのカップル(夫婦なのかどうかはわからない)が、路線図をふたりで指さしながらああでもない、こうでもないと議論していた。

都内のどこかへ行くルートを検討しているようだった。

しばらくして結論が出たらしく、ふたりは切符を二枚買った。

そして「意外と高いんだねえ」とか「乗り換えわかるかな?」とかそんな感じのことをささやきあいながら改札の中に消えた。

なぜ乗換案内を使わなかったのかはわからないけど(彼女の手にはiPhoneがあった)、ふたりの様子を見ていてなぜだかとても感傷的な気分になった。

そこには、駅の路線図を見て切符を買おうなどとは想像もしなくなってしまった自分には、もう手に入れることのできない経験があったからだ。