たぬきと存在

幼稚園に通っていた頃、「家でたぬきを飼っている」と主張して先生に怒られたことがある。みんなの前で「嘘はよくないわね」というようなことを言われた。

ぼくは嘘などついていなかった。ぼくの家では「たぬき」という名前の猫を飼っていたのだ。

家に帰って「幼稚園で不当な扱いを受けた」と(もっと子どもらしい言葉で)主張した。

あろうことか、大人たちはその話に大笑いした。それは大人たちにとっては「面白い」話だったのだ。

大人たちの誰かひとりでも、そのことについて先生が言ったことは不当だと認めてくれていたら、ぼくは今とはずいぶん違った人間になっていたのじゃないかと思う。

ぼくはその話を「面白い話」として語らなかったことを深く後悔した。それは、自分という存在が自分の中で位置づけられた瞬間として記憶されている。

自分をあるときには助け、あるときには縛ってきたその位置づけは正しいものだったのか。そんなことは簡単にはわからない。ライフ・アウトラインは常に変わり続けるからだ。