何年か前に旧Word Pieceに書いた「九歳のフリーライティング」という記事。
小学校の作文を書くとき、「頭に浮かんだことをそのまま書けばいい」と言われて本当にその通りにすると、ぜったいに書き直しになるという話。
あらためてそのときの作文を再掲してみる。
「海」
バスがトンネルをぬけると海が見えてきました。
みんながかんせいをあげました。
ぼくだけかんせいをあげませんでした。
ぼくはいつもそうです。
ぼくは海が好きです。
海が見えてくるのを楽しみにしていました。
いちばん好きなのはさいしょに海が見えるときです。
みんながかんせいをあげているのを見て、ぼくもかんせいをあげなければいけないと思いました。
ぼくもみんなのようにかんせいをあげたいです。
かんせいをあげる人は海がとても好きなんだなあと思いました。
ぼくはあまり海が好きではありません。
みんなでうたをうたうこともぼくは好きではありません。
ぼくはうたを聞くことが好きです。
海は広いなあと思いました。
ぼくは海が好きです。
まあ、書き直しになっても仕方がない。「海が好きです」が2回出てきているうえに、その間に「あまり海が好きではありません」と書いてあるし。
でも、頭にはまさにこのように浮かんだのだ。
■
元の記事にも書いたように、今思えばこの「作文」はフリーライティングのようなものなのだ。よく見れば、当時の自分の複数の思いがきちんと含まれている。
みんなと行動を合わせることがうまくできないこと。
海そのものよりも最初に海が見えるときの感覚が好きなこと。
歌は歌うよりも聞くことが好きなこと。
今とぜんぜん変わらないことに笑ってしまうけど、とにかく書くべき内容はきちんと書かれている(と思う)。問題は、それを制御できていないことなのだ。
子どもの作文の話ではあるけれど、大学でレポートや卒論を書くようになっても、社会人になって企画書や報告書を書くようになっても、本質的にはずっと同じ問題を抱えている気がする。
「書くべきこと」は浮かんできてもそれを制御できない。制御しようとすると、とたんに何を書いていいのかわからなくなる。でもどうすればいいのか、教えてもらったことは一度もない。
もちろん、その問題を解決してくれたのはアウトライナーだった。
■
アウトライナーについて人前でしゃべる機会があると、この作文の話をよくするのだが、考えてみると「この作文はフリーライティングなのだ」と言っておきながら、それをきちんと編集してみたことがない。
だから、このかわいそうな作文をフリーライティングとみなし、アウトライナーに放り込んでリライトしてみた。
「海」
バスがトンネルをぬけると海が見えてきました。
みんながかんせいをあげました。
ぼくだけかんせいをあげませんでした。
ぼくはいつもそうです。
みんながかんせいをあげているのを見て、ぼくもかんせいをあげなければいけないと思いました。
ぼくもみんなのようにかんせいをあげたいです。
みんなでうたをうたうこともぼくは好きではありません。
ぼくはうたを聞くことが好きです。
だから、ぼくはみんなで来る海があまり好きではありません。
でも、ぼくは海が見えてくるのを楽しみにしていました。
いちばん好きなのはさいしょに海が見えるときです。
海は広いなあと思います。ぼくはほんとうは海が好きです。
かんせいをあげる人も、海がとても好きなんだなあと思いました。
元の作文に対する今の自分なり解釈をもとに、パーツの順番を入れ替えて、ちょっと言葉をおぎなっただけ。でもこれで九歳のぼくが何を書きたかったのかはクリアになった。
■
あるいは、クリアになったかのように思える。
■
いったん順番が整えられ、整理されると、あたかもそれが「正解」であるかのように思えてくる。
でも、文章を書く人ならよく知っているように、違う「解釈」をすれば、オリジナルの作文からこれとはまったく違う(印象を与える)別の作文を作り出すこともできるはずだ。
「書きたいこと」「考えていること」など、ちょっとした加減でどれだけでも変わってしまう。「文章を書く」あるいは「編集する」というのはそういうことだ。
それでも、この作文は決して「嘘」ではない。わたしたちが依って立つ記憶や経験というのは、多かれ少なかれ編集されたものだからだ。