そんなピンポイントなものだったとしたら

少し前のことだけど、地下街にあるスタバで窓際の席に座って仕事をしていた。窓の外には地下街を行き交う無数の人々。

作業の手を止めてその様子をぼんやりと眺めていたら、ふと何の脈絡もなく「あ、幸せだな」と感じた。

生活と人生(ライフ!)に関わるもろもろの問題と課題と不安は何ひとつ解決していないけど、そんな状況とは無関係に、そして瞬間的に、その感覚は浮かび上がってきた(冒頭の「あ、」がけっこうだいじ)。

そのことをある場所に書いた。するとある方からコメントをいただいた。「それは、あなたが今いけてることの証左だと思う」というような内容だった。

それを読んで、とても不思議な気持ちになった。

いまだかつていけてた記憶は一度もないけど今の状況はいけてるのだろうか。ひょっとして万が一いけてる可能性があるとして、じゃあこれがドトールだったらいけてないのだろうか。開いてるのがMacじゃなかったらいけてないのだろうか。いやそういうことじゃなくてだろうか。

でも仮にそれがいけてることの証左になるようなものだとしたら、そんなピンポイントなものだったとしたら、幸せだなと感じるのはずいぶん難しいことになる上に、あまり意味を持たなくなっちゃうんじゃないかなと個人的に思った。