デコード

昔、交差点で信号待ちをしていると(中原街道のどこかの交差点だったと思う。助手席には妻がいた)、目の前の横断歩道をミニチュアダックスフントを連れた中年の夫婦が横断していった。夫婦の印象は「けっこう裕福そう」だったという以外には残っていない。印象に残っているのは犬のほうだ。

犬は口をいっぱいに開いてピンク色のゴムボールをくわえていた。信号が変わると待ちきれない様子で先に立って走り出し、横断歩道の途中で立ち止まって「はやくはやく」という感じで夫婦を振り返る。夫婦が追いつくとまた早足で先を行く。

「これから公園に行ってこのボールで遊ぶんだ!」という意思と希望が全身から発散されている。

それはもう20年近く前のことなのだが、フロントガラス越しに眺めていたその光景は、ぼくと妻の共通の記憶として鮮明に残っていて、今でも折に触れて会話の中で口にされ、確認される。

もちろん、その記憶には単に「横断歩道をボールをくわえて嬉しそうに渡っていた犬がいたよね」というだけではない膨大な量の情報が封じ込められている。

それをデコードできる人間は、この世界にふたりしかいない。

早足でないミニチュアダックスフントを見たことはない。