結果が出る(私的再定義)

結果を出さなきゃ意味がない

駅のホームで「どんなときも結果を出さなきゃ意味がないんだからな」という(かなり強い調子の)声が聞こえてきた。それは中学生くらいの男の子に向けたお父さんの声だった。

具体性のない、一般的な「結果」

「結果を出さなきゃ意味がない」というのは、子供に対する親の言葉としてどの程度一般的に使われているものなのか知らないけれど、ここ数年の間に複数回耳にしたことがある。

それが印象に残っているのは、自分の頃には子供に対してはまず使われなかった言い回しだからだ。そもそも「結果を出す」という言い回し自体が昔はなかった気がする。

もちろん、受験で志望校に合格しないと意味がない、県大会で上位に入らないと意味がない、などと言われる状況は昔からあった(その是非はともかくとして)。

でも、「何において」を省いた、具体性のない、一般的な「結果」をどんなときも出さなきゃ意味がない、という概念は(少なくとも言い回しとしては)なかった気がする。

「結果を出さなきゃ意味がない」というのは、そもそもプロのアスリートやオリンピック選手といった、極めて特殊な状況と立場にあるひとびとが(たとえばインタビューに答えて)使う言い回しだったはずだ。

あるいは、ある種の競争的なビジネスの現場などで使う言葉でもあったかもしれない。

いずれにしても、そこでの「結果」(優勝、成績、順位、出場、勝利、売上、予算 etc.)は、きわめて明確で具体的で狭いものだった。

わかってるよ

男の子はちょっと口をとがらせて「わかってるよ」と答えた。

たいていの良きこと

「引き寄せの法則」なるものを単純に肯定するものではないけれど、あらゆる運気を遠ざけてしまうような振る舞い、つまり「引き寄せの逆」みたいなものは確かにあるので、「引き寄せの法則」と表現されるような何かが実際に起こることはあるのだろうと思う。

でも同時に、世の中の良きことの中には「それは確かに起こるが、それが起こることを期待すると起こらない」という類いのものがあって、「引き寄せの法則(的なもの)」はそのひとつなのではないか、とも思う。

明確で具体的で狭い目的を持った特殊な状況を除いて、たいていの良きことは「結果的に」起こる。

個人的にはそういうことこそを「結果が出る」と呼びたい。