モードを再現するメモ

書こうと思っても書くことは頭に浮かんでこないくせに、書こうと思っていないときに限って書くことを思いつく。あるいは書けそうな感覚がやってくる。

その場に書くための道具や環境さえあれば、そのまま書けそうな気がする。でも多くの場合それはない。あるいは状況が適切でない。そうこうしているうちに、思いついたことも、書けそうな感覚も消えてしまう。

だからこそ「メモ」が重要なのだと言われてきた。発想は浮かんだときにキャッチしなければ、すぐに雲散霧消してしまうからだ。

では、発想はメモとしてキャッチしておきさえすれば書くことにつながるのかというと、それはまた別の問題のような気がする。

メモはあっても、後から見たら結局使えなかったということはたくさんある。そもそも大した発想ではなかったということがいちばん多いのだが、後から見てもなかなか悪くないと感じるのに使えないメモというものがある。

文章にしようとしても、メモの内容以上に膨らまない。メモしたときの(何かが書けそうだという)高揚感の記憶だけがあるようなメモ。旬さえ逃さなかったら何かになっていたのではないかと感じさせられるメモ。

思うのは、書こうと思った、そして書けそうな気がしたときの自分のモードが伴っていないと、(たとえメモがあったとしても)あの「書ける感じ」は再現できないのではないかということだ。

だから「発想」と呼ばれるものは、内容とそのモードを合わせたものなのではないか。書き殴ったメモは、実は発想の抜け殻みたいなものなのではないか。

書き殴ったメモを元に、実際に何かが書けたということはもちろん何度もある。そんなときは、メモしておいてよかったと思う。

そのときのことを思い出すと、メモを見た瞬間に(発想が浮かんだときの)高揚感が戻ってきて、メモの内容そのものとはあまり関係なくその場で頭が回転し始めたような印象がある。

つまり、メモされた思考の断片が直接何かに使えたというよりも、メモをした(発想が浮かんだ)ときのモードの再現に成功しているのだ。

自分の場合、モードの再現に成功しやすいのは、キーワードや図(広い意味での)ではなく、ある程度「文章」の形をしたメモのようだ。

文法的に必ずしも正しくなくても、いちおう「てにをは」がある文章。それも、変な言い方だけど、自分にある種の高揚をもたらしてくれるトーンで書かれた文章。それがどんなトーンかは、ときどきで変わる。たぶん、そのとき読んでいた誰かの文章のトーン(文体、と言っていいのだろうか)に引きづられているのだと思う。

面白いのは、そのトーンがモードの再現のキーになっている(ことが多い)らしいことだ。そしてモードが再現されることによって、(メモを取った時点に近い形で)頭が回転しはじめる。

発想メモの類は、単にメモの内容だけでなく、メモしたときのモードを再現できる必要がある。

これがすべての人に当てはまるのかどうかはわからないけど、自分にとってのメモを考える際には、けっこう重要なことのようだ。