これだけしつこくアウトライナーについて書いてる人はそんなにたくさんはいないとは思うのだけど、アウトライナーについてまだ書くことはあるだろうか。
WorkFlowyという、現代的なウェブブラウザさえあれば使える本格的なプロセス型アウトライナーが登場したことが「これで本を書ける」と思ったきっかけだし、WorkFlowyは低迷していたアウトライナーの復権の大きなきっかけになったと思う(はっきり言って感謝している)。
WorkFlowyがひとつの基準となり、Dynalistをはじめとするモダンなアウトライナーたちが登場した。それらがあるからこそ、多くの人に気軽にアウトライナーを勧められる。そんな時代はここ5〜6年のことなのだ。
WorkFlowyはもっとも純度が高いプロセス型アウトライナーであり、Dynalistはいちばん便利で速いアウトライナーだとも思う。
でも、そこから欠落してしまった何かがあるとも感じる。WorkFlowyやDynalistが悪いわけではない。でも、やっぱりそう感じてしまう。そこにはノスタルジーも関わっているはずだけど、それだけではない。
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アウトライナーを使う感覚をはじめてつかんだ気がしたのはActaを使っているときだった*1。
ただ湧き出すように書けばいいという感覚をつかんだとき。
湧き出すことを抑制しない。ただ書いていく。書いていくそばからピースを動かす。書きながら分割し、結合し、入れ替え、統合し、俯瞰し、また書く。
何かのきっかけでピースがはまり、考えが急速に形になっていく。自分が書いたことに対して、そうか、そういうことかと思う。
よくできたアウトライナーを使うと、特に意識しなくても自然にシェイクが起こるのだ。それを促す「感触」としか言いようのない何かが備わったアウトライナーがある。
かつてActa、MORE、InspirationなどMacのアウトライナーが持っていた感触。WindowsにはSolがあった。今ならOmniOutlinerにその遺伝子を感じる。
WorkFlowyやDynalistにそれが皆無なわけではないのだけど。
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その「感触」って何だろう。UIでも機能でもないような気がする。あるいはその両方が少しずつ関わっている気もする。
「シェイク」を定義したときも、プロセス型アウトライナーとプロダクト型アウトライナーの違いを説明できたときも、それを言葉にできたかもしれないと感じた。でも、まだ何かが足りない。
最近『書くためのアウトライン・プロセッシング』で「ピース」について少し言葉にできたのは大きかったと思う。
でもやっぱり足りない。