よみがえるアウトライナー(James LaRue/Tak.訳)

Tak.コメント:

この文章は、アメリカ・コロラド州のキャッスルロックで公共図書館関連の仕事をされているJames LaRue氏が2002年に公開した「Outliners Redux」の日本語訳です。「クラシックアウトライナーの時代」の続編でもあります。MS-DOS時代に愛用していたアウトライナーKAMASの素晴らしさとそれが使えなくなった悲しみ、やがて無償で公開されていたDave WinerのMOREに愛用するようになるまで経緯を紹介しています。

気に入ったアウトライナーが使えなくなったときの気持ちは、ぼくにもよくわかります。アウトライナーに限らずどんな道具でもそうですが、特にソフトウェアの場合の問題は、個人的にどんなに気に入って大切にしていても、ずっと使い続けることが困難だということです。そして本当によくできてソフトは、一度消滅してしまうと代わりが存在しないのです。

MOREも当時すでに発売中止となり、メーカーの好意で開発者のDave Winer氏が無償で公開していたものであり、その後のLaRue氏がいつまで使い続けられたのかはわかりません(現在はLinuxユーザーのようです)。

やはり古い文章なので、実用情報としての価値はありませんが、そうしたソフトウェアのあり方への問題提起と同時に(ある特定の)ソフトウェアが、個人にとっていかに欠かせない、重要な存在になるかということも示しているという点で、とても興味深いものだと思います。文章の最後はKamasを開発したAdam Trent、MOREを開発したDave Winerをはじめとするプログラマたちへの感謝の言葉で結ばれています。

(James LaRue氏から翻訳許可をいただいています)

序文

クラシックアウトライナーの時代」でも書いたように、アウトライナー(アウトラインプロセッサとも呼ばれる)はテキストとその根底にある構造の両方を操作するための強力なツールだ。

同じ記事で2種の「クラシック」アウトライナー(ここでの「クラシック」の意味は、90年代初期に開発されたという意味だ)、KAMAS(MS-DOS用)、そしてMORE3.1(旧Mac OS用)を推薦した。

私は長年KAMAS(Knowledge And Mind Amplification System——「知識と意識の増幅システム」の略)を使っていた。CP/Mの世界での最初期リリースから、1987年にリリースされた素晴らしいバージョン2.3までだ(最終的にはバージョン2.5までいったと思う)。この高品質プログラミングの素晴らしいお手本は、Adam Trentの手で生み出された。私がWindows、次いでMacintoshへと乗り換えなければ、ずっと使い続けただろう。たぶん8年近くの間KAMASを使っていたと思う。しかし私はマルチフォント、マウス、そしてグラフィカルなインターネットの誘惑に打ち勝つことはできなかった。

追憶のKAMAS

そんなわけで、私はKAMASに別れを告げることになった。しかし、それ以来常にKAMASの代わりを探し続けてきた。理由はいくつかある。

KAMASは小さく、そして速かった。元々ソフトウェアレビューの仕事をしていたこともあり、私には最小限のリソースで多くのことを実現するソフトウエアを偏愛する傾向がある。KAMASはわずか131KBのメモリで動作し、同程度のディスクスペースしか必要としない。Windowsを利用していた時期、私は肥大化するプログラム——巨大化し、動作が鈍くなり、役に立たなくなるメモリ喰い・ディスク喰いのプログラム——にますます悩まされるようになってきていた。

KAMASは強力だった。当時私はアウトライン・プロセッシングについてあまりよく知らなかったので、KAMASがどれほど多機能であるかに気づかなかった。後に私が出会った最も強力なアウトライナーと比較しても、KAMASは驚くほどよくできていた。

KAMASはエレガントだった。KAMASにはアウトライン編集とテキスト編集という2つのモードがある。アウトライン編集モードでは、驚くほど複雑な操作でもほとんどの場合1回もしくは2回のキー操作で実行できた。後でまとめて操作するために項目をマークしておきたいとしよう。操作は簡単だ。「T」(Tagの頭文字)を叩けばいい。その後、自動的に次の項目に移動する。

もう少し複雑な例をあげよう。

全てのコマンドはロジカルかつ覚えやすく配置されていた。アウトライン編集では、コピー(copy)するには「C」、挿入(insert)するには「I」、集合(gather)するには「G」、移動(move)するには「M」……などと叩けばよい。これらは全て、同じ階層の次の項目(nextの「N」)、下位の階層(downの「D」)に適用することができる。同様にカーソルを素早く下位レベル、次のレベル、上位レベルに移動することもできる。

KAMASはよく整理されていた。マウスは使わない。アウトライン編集モードではコントロールキー、オプションキー、ファンクションキーなどを使う必要はない。キーボードの上に手を置いたままで、ヘッドラインと関連するテキストを作成し、操作し、巻き上げ、分割し、つなぎ合わせることができる。

テキスト編集モードでは、KAMASはWordStarと同じ操作で使うことができる。WordStarもまた、指をキーボードに乗せたままで使うことのできる驚くほどリッチなプログラムだ。

KAMASはシンプルかつ深みがあった。私は数分で基本的な編集コマンドを覚えることができた。しかし何年も使い続けた後にも、便利な操作上のコツや活用方法を発見するのだった。

KAMASは有用だった。当初、KAMASは私にとっては単なるToDoリストにすぎなかった。後に様々なプロジェクトの進捗状況を管理するのに絶好の道具だということがわかった。私は特定のプロジェクトに関して書いた項目を抜き出して、新しくつくった専用のアウトラインに投げ込んでいった。これでプロジェクトの計画や、進捗記録の管理により特化したアウトラインができる。

後に私はKAMASで作成したアウトラインのひとつひとつを、テキストデータベースのように使うようになった——つまり、単一の強力なコマンドで検索することができる、小さなテキストの断片やファイルの集合体だ。仕事に関するありとあらゆるものをこれで管理した。家ではKAMASのファイルに通信記録、新聞に書いたコラムや記事を入れておいた。こうしたテキストデータベースのいくつかは、数メガバイトにまで成長した。それでもKAMASは大きなファイルも小さなファイルと同じように容易に扱うことができた。

時にさまざまなKAMAS愛好家たちに出会うことがある。ひとりはセントルイスの近くにある大学で文献司書として働いていて、KAMASをレファレンスデスクで活用している。問い合わせのあった内容をアウトラインの見出し項目として、その回答をテキストリーフとして入力する。この方法で、彼は独自の必要に基づくレファレンスツールを作り上げた。

私のお気に入りの用途は、記事、技術文書から書籍のアウトラインまで、あらゆる種類の長文作成だ。

KAMASは魅惑的だった。最初KAMASが「Knowledge and Mind Amplification System(知識と意識の増幅システム)」の略だという説明は大げさだと思った。しかし時間がたつにつれて、私はその真価を認めるようになった。KAMASは私に階層整理(アウトライン編集)とテキスト(ワードプロセッシング)を区別するよう強制した。KAMASには2つの制限があった。見出し項目は88文字以内でなければならない。テキストリーフは32K以内でなければならない。後者の制限を気にしたことはなかったが、前者の方はときに困りものだった。それでも、その区別は脳の両方の側を自在にあやつることにつながった。一方は構造に、もう一方は直感にフォーカスするのだ。

見出し項目の文字数制限がより簡潔な、ひいてはより効果的な思考を私に強制したように、KAMASのコマンドは私に対して、発想を磨き抜かれたものへと「レバレッジ」(KAMASのマニュアルの中に何度も登場する言葉)することを教えてくれた。KAMASは私をより良い書き手として、管理者として育ててくれた。

必要がなくてもつい使ってしまう、というのは本当に良いソフトウェアであることの証拠だ。その典型的な例を示そう。ある日の午後、私は漫画本の整理にさえKAMASを使った。KAMASは単に楽しいだけでなく、使うたびに何かを学んだように気にされてくれるのだ。

暗黒の日々

そして暗黒の日々がやってきた。いくつものWindows用、マック用のプログラムを試してみたあとで、私はClarisworks(現Appleworks)に落ち着いた。やはり無駄のない、きびきびとしたプログラムだった。アウトライン機能さえついていた。しかし、アウトライン機能はワープロモジュールの明らかな付属機能であり、その核ではなかった。Appleworksのアウトライン機能を使ってみても満足できなかった。私のお気に入りの機能がそこには見当たらなかった——「Mark & Gather(マークと集合)」も、「Move to Bin(容器に移す)」も、「ホイスト(巻き上げ)」も。それにAppleworksで作ったアウトラインをメールに貼り付けるとすべての書式が消えてしまうのだ。フラストレーションがたまった。

今でもときどき8086で動作する年代物の東芝ラップトップを引っぱり出してくる。KAMASが目にもとまらないスピードで動作する。いくつかのファイルに目を通し、コラムの一つ二つひねり出し、WindowsやMacに移すための一連の手順を踏む。そしてそのたびに私は「神よ、KAMASが恋しいです」と思う。

もちろん、ほとんどの場合問題はなかった。多くの人々と同様、私の作成するほとんどのファイルは短いワープロ書類だった。仕事ではときどき表計算やデータベースが必要になることもあったが、Appleworksが優雅に手早く片づけてくれた。日々のメールやブラウジングにはNetscapeを使った。連絡記録とタイムマネジメントにはPalm Desktopを使った。人は一度グラフィカルな環境に移行したら、基本的にそこに留まるものだ。

それでも、私はKAMASに似た何かを求めてWEB上のシェアウェアのアーカイブを「アウトラインプロセッサ」で検索したりして探し回った。ほとんどの場合、何も見つけることはできなかった。コンピューター誌の中にも目新しいものはなかった。まるでアウトライニングというカテゴリー自体が消滅してしまったかのようだった。ときに人生は最低だ。そして人は慣れていく。

MORE:機能過剰か?

そんなある日、Googleで「アウトライニング」(「アウトラインプロセッサ」に対応して)というキーワードで検索していたところ、Dave WinerのOutliners.comに行き当たった。アウトライナーを愛する人々のために作られたサイトだ。多くの人が、Winerとその仲間たちが1991年にMac用に開発したMOREというプログラムを絶賛していた。私はその名前を聞いたことがなかった*1

そのMOREがSymantec社から無償(サポートなしではあるが)で提供されていることを知って、私はいっそう興味を持った。私はMOREと、やはり無償で提供されていたActaの両方をダウンロードした。

独自の優雅さを備えたActaを私は心底楽しんだ。しかし残念ながらKAMASの強力さには比べるべくもなかった。Actaは文章書きのツールというよりはリストプロセッサーだ。しばらくの間、たまに遊んでみる程度に使っていたが、結局は使わなくなってしまった。

MOREを試してみたとき、最初の何回かはとっつきにくいと感じた。理由はいくつかある。

MOREにはありとあらゆる種類の目を見張るような、しかし一見したところ複雑な「特殊機能」があった。スライドショーをつくる機能、ツリーチャートをつくる機能があり、それぞれが独自のメニューとオプションを持っている。

「ルール」という機能もある。要するに書式設定オプション(フォント、インデント、カラー、スタイル、etc.)を1つまたはそれ以上のアウトラインレベルに対して適用することができる、カスケーディング・スタイルシートのような機能だ。

私が思うに、もっとも大きな理由はアウトライン編集とテキスト編集を分けるKAMAS流の考え方に私が慣れてしまっていたことだ。私はMOREの「コメント」機能(ミニワープロウィンドウ)を偶然発見はしたものの、やはりネットから拾ってきたPDFマニュアルを熟読するまで、それを画面いっぱいに拡大する方法がわからなかった。

そのときまで、私にとってのMOREの印象は、クリック、オプションキー、コマンドキーの途方に暮れるような組み合わせで起動する各種機能が無粋に束ねられた、機能過剰ソフトというものだった。

見直してみる:MOREは完璧か?

けれども、(飽くなきKAMASへの想いに後押しされて)目を通したそのマニュアルが、MOREこそまさに私が探していたようなグラフィックベースのアウトライナーかもしれないということを示してくれた。

私は自分自身に2つの課題を課した。まず新聞のコラム2年分をKAMAS式のテキストデータベースにした。MOREを使って日付とタイトルをアウトラインのヘディングとして設定し、コメント欄にはテキストを入れていった。

その過程で、私は(良いソフトウェアであれば)執筆を喜びに変えてくれる、様々なキーストロークについて学んだ。たとえば全てのワープロが備えているべき例をあげよう。カーソルを移動または選択する——センテンス単位で!

もうひとつ、KAMASで課せられていた見出し項目の文字数制限から開放される喜びも知ることになった。パラグラフそのものを見出し項目として扱えることに気づいたことで、アウトラインのパワーを文法的に一段深いレベルにまで適用できるようになった。

さらに、アウトライン全体にシンプルなルールセットを適用することで、驚くほど簡単な手間で、印刷に適した書式へと瞬時に変換できることも発見した。

しかしMOREも完璧ではない。

MOREは私がKAMASであれほどまでに高く評価していたデザインのシンプルさを欠いている。単純なコマンドであっても、マウスを使うか2本指のコマンドが必要だ。あるコマンドでオプションキーを使うのだったかコマンドキーを使うのだったかを覚えているのは時に困難だ。

KAMASにあったいくつかのコマンドを欠いていることを物足りなく思っていることも認めなければならない(前述の「容器に移す」コマンドもそのひとつだ)。

しかし、MOREには心をつかんで放さない数々の強みがある。

MOREはグラフィカルである。フォント、スタイル、そしてカラーを扱うことができ、マウスで操作できる。にもかかわらず、MOREは驚くほど小さく、速い。ディスク上で618K、メモリー上で1.2MBを要するにすぎない。そのうえ、保存したファイルのサイズは単純なテキスト形式での保存と大差ない。

価格も文句なしだ。これ以上を求めるなら、私がMOREを使うことに対して誰かが対価を支払ってくれること以外にない。

MOREは私が探してきたアウトライン・プロセッシングの能力を全て持っており、さらにKAMASが持っていなかった多くのコマンド(クローン、文字数制限のない見出し項目、センテンス単位での選択)を持っている。

私が愛するに至った全てのプログラムと同様、MOREは恐ろしく奥が深い——単に特別な機能があるからというだけでなく、私自身の思考プロセスの奥底の闇を照らし出す隠れた能力を持っているのだ。

アウトライニングの将来

私が学んだのは、自分がアウトライナー無しでやっていくことはできないし、そのつもりもないということだ。アウトライナーは、望むような仕事をするために私が発見したベストなツールだ。

私は消えることのない悲しみを感じ続けている。Macに移行したのは何年も前のことだ。いったいどうして、そのときにMOREを発見できなかったのか? 私はMOREに心酔している。最初からこれがあったら、私ははるかに多くのことを達成できたはずだ。私は何年間も無駄にしてしまったのだ。

今までのところ、私は呪われているようだ。まったく非凡ではあるが、見捨てられたソフトウェアを見つけてしまうという困った傾向があるのだ。とはいえ、MOREのことを耳にしていたとしても、それを購入するための合法的なチャネルは存在しなかった。ひょっとすると、無料で提供されるようになるまでそのことを知らずにいたのは幸いだったのかもしれない。

Macの将来はOS Xにある。その世界ではMOREは存在していないだけでなく、いかなる開発も行われていない。OS X上の代替品がいくつか登場してはいるが、いずれも10年前のMOREに遠く及ばない。登場しつつある選択肢のほとんどは、自らをリストプロセッサかプロジェクト管理ソフトとみなしている。私がほしいのは最上のライティング(文章作成)ツールだ。MOREは、現段階で既にそれを達成しているのだ。

再びプラットフォームを乗り換えてもいいのかもしれない。自宅には3台のMacとMS-DOSのラップトップと古いCP/Mマシンがある。OS Xが動くMacは1台もない。私はマイクロソフトに偏見を抱いているが、Windows NT上で動作するアウトライナーのいくつかには興味をひかれる。とはいえ私の知るかぎりいずれもKAMASにもMOREにもはるかに及ばない。Linuxには興味がある。でもLinux上のアウトライナーは笑ってしまうくらい原始的だ。

私は理由がないかぎりプラットフォームを移行することはない。古いMac(中古コンピュータショップでただ同然だ)があればMOREは問題なく動く。その時代遅れの機械で、残りの人生の間望む執筆作業のほとんどをまかなえると思う。

一方で、ローカルマシンから他のマシンへと、おそらくインターネットを通じて最低限の手間で移行することができて、デスクトップとPalmマシンの両方で動作する、執筆のためのプラットフォームがあったら素晴らしいとも思う。

結論

MOREを私に与えてくれたこと、Symantec社に感謝したい。あなた方は私に喜びを与えてくれた。MOREは真の古典と呼べるソフトウェアだ。同じように素晴らしいソフトウェアを開発し、広めることに注力してほしい。このようなソフトウェアは、価値あることを成し遂げることを通じてビジネスの役に立つだけではない。個人の生活の価値を高める力をも持っているのだ。

Adam TrentとDave Winer、そしてその他の才能に恵まれたプログラマたちにもやはり感謝したい。彼らの努力が、私たちに素晴らしい時間と、このように美しく精巧なツールを手にする喜びを与えてくれたのだ。みなさんには恩義を感じている。

*1:Tak.注:1991年は誤り。MOREは80年代の後半に開発された。