アウトライナーとしてのWordを考える(Tak.)

2021年1月コメント:

2010年頃に書いた文章(一部修正済)。これを書いた時点ではまだ「プロセス型アウトライナー」と「プロダクト型アウトライナー」という用語を使っていません(見出しと本文を区別しないアウトライナーはプロセス型、区別するアウトライナーはプロダクト型)。見出しを区別しないアウトライナーの例としてActa、OPAL、OmniOutlinerが出てきますが、もちろん今ならWorkFlowyやDynalistがこれに該当します。この文章を大幅にリライトしたものが『アウトライン・プロセッシング入門』の一部に組み込まれています。

Wordのアウトラインモードに対する違和感

90年代半ば以降、単体製品としてのアウトライナーが廃れた大きな要因は、アウトライン機能がワープロやエディタに組み込まれるようになったからだとよく言われる。あのDave Winerもそうした見解を述べていた。

その代表的な製品がMicrosoft Wordだ。批判はたくさんあるものの、Wordにはそれなりにしっかりとしたアウトライン機能が装備されている。Wordがあれば、わざわざアウトライナーを入手する必要なんかないのではないかという意見は多い。実際、Wordは最も普及したワープロであるだけでなく、最も普及したアウトライナーでもある。

ぼく自身、アウトライナー入門にいちばん適しているのはWordのアウトラインモードだろうと長い間考えていた。もっともありふれたポピュラーなソフトのひとつであり、身の回りのパソコンに既にインストールされている可能性が高い。つまり多くの人にとって敷居が低い。その上でアウトライナーとしての基本機能を過不足なく備えている。

一方で、アウトライナーの本当の魅力はWordのアウトラインモードを使っても理解できないのではないかという感覚が常にあった。それは個人的な経験からきている。

1993年に最初のパソコンを買ってからのほとんどの期間、ぼくはMacユーザーだった。唯一、自宅で仕事をしていた90年代末から2004年までの間、Windowsマシンをメインで使用していた。仕事上の必要ということもあるしMacが低迷した時期だったということもある。

マックからWindowsに移行したときいちばん困ったのは、アウトライナーのActaが使えなくなることだった。好みのアウトライナーのひとつやふたつWindowsにもあるだろうと考えていたのだが、甘かった(WindowsにもSolというActaにかなり近い感覚で使えるアウトライナーがあったのだが、当時は知らなかった。InspirationのWindows版という選択肢もあったが、値段が高すぎるのと操作体系がWindowsに馴染んでいないのを敬遠した)。

Windowsに多い2ペイン型(アウトラインと本文を別々のペインに表示する)のアウトライナーは自分には馴染まないとわかっていたので、したかなく1ペイン型であるWordのアウトラインモードをメインに使うことになった。

でも、どうもマックでActaを使っているように使えない。Wordが役に立たないわけではなく、仕事のレポートを書いたり、インタビュー結果を整理したり、打ち合わせ内容をまとめたりする目的には何の不足もない。要するに、外部の情報を整理する目的には充分使える。でも、思いついたことや考えたことを蓄積して発酵させ、組み立てていくような用途に使おうとしてもうまく機能しない。

実はWordは決して嫌いではなく、Mac時代から何度もWordをメインのアウトライナー(兼・ワープロ)に使おうとしたことがあったのだが、そのたびに挫折していたのだった。

この時期にDave WinerのOutliner.comを発見してアウトライナー熱が再燃したのだが、自分の手元には満足のいくアウトライナーがなく、けっこう歯がゆい思いをした。

アウトライン項目の扱い方の違い

2005年に(会社員になって自宅で仕事をすることがなくなったので)Macに戻り、改めてOmni OutlinerやOPALを使うようになってみると、問題は機能の差ではなく、むしろ柔軟性の差だということがわかってきた(機能の数でいえばActaもOPALもWordよりはるかにシンプルだ)。

ポイントはアウトライン項目(トピック)の扱い方だ。

Wordのアウトラインモードつくったアウトラインは、デフォルトのモード(印刷レイアウトモード)に切り換えたときに文書の「見出し」とみなされる。つまりWordのアウトラインとは、見出しの階層そのものだ。だからWordでアウトラインを作ろうとすると、いやおうなしに完成した文書の見出し構成を意識することになる。

一方OmniOutlinerやOPAL(そしてかつてのActa)などは、アウトライン項目のひとつひとつが見出しにもなるし内容にもなる。どちらなのかを規定するのは、アウトラインの階層だけだ。項目を自由に入れ子にできるので、そのままにしておけばそれは本文段落になるし、下位に別の行を配置すれば、それは見出しとなる。本文段落の下にさらに段落を入れて注にすることもできる。

よく誤解されているが、作成中のアウトラインは完成した文書の見出しと一致する必要はない。「アウトラインって要するに目次案のことでしょ」というのは間違いなのだ。

見出しとは、ある程度まとまった文章の塊を括るものだ。だからWordのように「見出し」に縛られてしまうと、見出しになり切れない細かい断片をうまく操作できない。

思いつきを蓄積して発酵させて行くような用途には、完成した文書の構成や形式に縛られない柔軟性が何よりも重要になる。OPALやOmniOutlinerではいろいろな思いつきをアウトラインの中に投げ込んでおいて、いろいろと組み替えながら徐々に発酵させ、ひとつのテーマをもった文章に成長させていくという使い方が自然にできるけれど、Wordで同じことをするのは難しい。

Wordのメリット

とはいえ、Wordのアウトラインモードには独自のメリットがある。

繰り返しになるが、Wordではアウトライン項目がそのまま完成品の文書の見出しとして扱われる。これは未完成の発想を操作する段階ではかえって足かせとなってしまう。しかし、構造を持った大規模な文書(レポート、論文、書籍など)の執筆の中盤以降の作業(おおむねドラフトが出来上がったところから完成まで)の作業では、この見出しとアウトラインの連動が有効になる。

決定的な違いは、Wordではアウトラインと完成品の文書の間を行き来できるということだ。たとえばアウトラインを組み立てつつできるだけ内容を詰めて、アウトライン上でドラフト段階まで持っていく。その段階でアウトラインモードから印刷レイアウトモードに切り換えと、アウトライン項目がそのまま章、節、項などの見出しとして表示される。

Wordではアウトライン項目=見出しは9レベルまで設定できる。見出しらしく見えるように自動的に書式も設定されている。この書式はデフォルトのままではほとんど使い物にならないが(MSさんらしい)、自分で好きなように設定できる。うまく設定すると、アウトラインを作るだけでほとんど自動的に書式の整った文書ができあがる

問題はここから先だ。奥出直人氏も書いているように、完成品に近い(見映えをきれいに整えられた)紙面で読んでいくと、下書きをしていたときには気づかなかった欠点がいろいろと見えてくる。文字の直しくらいならその場ですればいいが、場合によっては構成全体を変更したくなったりもする。たとえば、第1章と第2章を入れ替えた方が説得力があるな、と思う。

たとえばOmniOutlinerなどの専用アウトライナーを使ってドラフトを書いたとして、それをワープロなりDTPソフトなりに読み込んで提出用に書式を整えてしまった後に構成を変更したくなっても、もうアウトラインに戻ることはできない。

Wordのアウトラインモードを適切に使っていれば、もう一度アウトラインとして全体を俯瞰したいと思ったら、アウトラインモードに切り換えればいい。一瞬のうちに文書全体がアウトラインとして操作できるようになる。項や節全体といった大きなテキストの塊を、マウスひとつで簡単に移動させることができる。大規模な再構成の作業を、通常のワープロ画面で行なうよりもはるかに楽に、そして間違いなく行なうことができる。

文書作成の最後の最後までアウトライナーのメリットを享受できるという点で、論文やレポートのような構造を持った大規模な文書の作成に、Wordはとても有効なのだ。

ついでにいえば、アウトライン機能を使って作成された文書であれば、目次も自動的に作成できる。アウトラインを組み替えれば目次は自動的に更新される。提出期限ぎりぎりまで文書に手を加えることを考えれば、この機能のありがたさがわかる。こういう使い方は、専用アウトライナーではできない。

こうしてみてくると、見出しを分けないタイプの専用アウトライナーは文書作成の初期から中期に特に有効なのに対して、Wordなど見出しとアウトラインが連動したワープロ組み込み型のアウトライナーは、中期から後期に有効なことがわかる。

ぼく自身は資料集め・アイデア出しからドラフトの段階までは専用アウトライナーを使い、その後の段階はWordに読み込んで作業をすることが多い。

なお、アウトライナーとしてのWordの使い方については、中野明著『論理的に思考する技術──みるみる企画力が高まる「アウトライン発想法」』 がとても参考になる。この本はぼくの好みからすると内容が少々ビジネス寄りだが、アウトライナーとしてのWordに全面的にスポットライトを当てたほとんど唯一の本としておすすめだ。