結果と過程のアウトライン(Tak.)

2021年1月コメント:

2009年に公開した記事を一部修正・アップデートしたものです。

ずいぶん前のことですが、Dave Winerをはじめとする著名ブロガーの間でアウトライナー否定派・肯定派による論争が行われたことがあります。

この議論を追っているうちに、アウトライナーについて人に説明するときによく感じる違和感(というか、話が噛み合ない感じ)の原因がなんとなくわかったような気がしたので、ちょっと整理してみました。

アウトライナー有害論

論争の口火を切ったのがJulian Bondです。

「Outliners Considered Harmful(アウトライナーは有害だと考えられる)」と題した記事で、議論を練り上げる際のアウトラインの有効性は認めつつ、Craig Listなどの階層型ディレクトリサービスの使いにくさを根拠に、現実の世界はもっと乱雑なものであり、階層構造で表現することはできない、その意味でアウトライナーは有害であると主張しました。

なぜそれが有害なのだろうか? まず階層思考を奨励するツールを使うと、全てが階層構造のように見えてくる。残念なことに、世界はもっとはるかに乱雑だ。ほとんどすべてのものは、実際には網目構造であり、階層構造ではない。さらに、データ中に対立する2つまたはそれ以上の別の階層構造が隠れているのを発見する可能性は非常に高いし、現実世界ではそれが10個だったりすることもある。局地的な分類とカテゴリー別の分類が対立し、併存せざるを得ない複数の階層構造のあちこちに同じ項目が同時に含まれ、あなたをありとあらゆる混乱に導くことになる。

簡単にいえば、アウトライナーが有害なのは、それが階層思考を導くからだ。そして、階層思考が有害なのは、それが政治的階層(ヒエラルキー)につながるからだ。さらに、これら全てが有害なのは、世界は実際に網目のように絡み合っていて、エレガントなツリー構造にはなっていないからなのだ。

政治的階層云々というのは飛躍だとは思いますが、「世界は階層構造で表現できるほど単純ではないし、ひとつのデータの中に対立する複数の階層構造が存在し得るのだから、それをアウトラインで表現しようとすれば混乱が起こる」という主張は納得できないものではありません*1

アウトライナー擁護論

一方Scott Rosenbergは「Outliners then and now(アウトライナーの今と昔)」と題した記事で以下のように述べます。

私は特に階層的な思考をするタイプではない。アウトライン操作に対する私の愛情は、階層や構造への執着からというよりも、柔軟性を好むからという側面が強い。私はアウトラインのノードがきれいな親子関係を持つツリー構造になっていることにはこだわらない。重要なのは、アウトラインによって緩やかな構造を持った情報を簡単にあちこち動かせること、そして地を這う微視的な視点と、上空から俯瞰する視点との間を素早く行き来できるということだ。

アウトライナーはアウトライン構造を強制したりはしないし、アウトライナーの有効性はむしろ構造に基づいて微視的な視点と俯瞰的な視点が往復できること、そしてデータを移動が簡単に行えるところにあるということです。

Ecco Pro*2に代表される高機能なアウトライナーは、タグ機能やカラム機能を利用して階層構造と同時に編目構造も実現できるのであり、ひとつのデータの中に複数のアウトラインが存在するという問題はクリアしているとも言います*3

ブログTaking Notes(執筆者名不明)も「Outlines and Meshes(アウトラインと編目)」と題する記事の中でRosenbergに同意します。

「階層思考を奨励するツールを使うと、全てが階層構造のように見えてくる」という主張は、明らかな誇張だ。たしかに階層思考を奨励するツールはすべてを階層構造に従って見るようあなたを奨励するのはかもしれないが、それを強制したりはしない。世界を階層的に捉えるか、非階層的に捉えるかの判断は、最終的にはユーザーにまかされている。アウトライナーは誰かが誰か伝えようとする内容を最大の説得力を持って組み立てるためのツールだ。単なる主張は構造化されることによって議論となる。このことと、世界を階層的にのみ捉えることとは何の関係もない。

階層構造を奨励するツールを使ったからといって世界を階層的に捉える必要はないのであり、それはユーザーにまかされているということです。

アウトライナーの実質的な祖であるDave Winerは「Text on Rails(テキスト・オン・レイルズ)」と題する記事で「アウトライナーはむしろ階層構造の強制とは正反対である」と言います*4

内容をマウスであちこち入れ替える機能は、私にとっては欠かせないものだ。構成から私を解放にしてくれる。後からいくらでも変更できるからだ。私が仕事をする上で、それは硬直とは正反対の効果を持っている——それは流れをつくるのだ。

結果と過程

ここまで見てきて気がつくのは、アウトライナー否定派の主張と肯定派の主張が(否定派はひとりですが)、文章作成の異なるフェイズについて語っているということです。否定派がアウトライナーを「完成品」もしくは「結果」として捉えているのに対し、肯定派は文章を書くプロセスの中で利用する便宜的なものとして捉えているわけです。

思い当たるのは、アウトライナーを嫌いもしくは不要という人の典型的な反応が「論文じゃないんだからアウトラインとか関係ない」というものだということです。あるいは「アウトライナーなんか使うと必要以上に堅い文章になってしまう気がする」という人もいます(個人的観測範囲の話ではありますが、同じような感想を何人もの人から聞きました)。

どうもアウトライナーが役に立つのは論文とかレポートとか、そういう堅い感じの文章(かっちりとした構成を持った文章)だという先入観があるようです。個人的にその感覚には(理解はできつつも)違和感があったのですが、その理由を長いこと言葉にできずにいたわけです。

アウトライナー論争を見ていてあらためて気づいたのは、「アウトライナーを使うと堅い文章になってしまう」という感覚がアウトライン(あるいは階層構造)を「結果」として捉えることから来ているのではないかということです。

私がアウトライナーを使うとき、たしかに文章をアウトライン(階層構造)として操作しています。しかしそれは、書きかけの文章をアウトライナーで操作するための便宜的な階層構造です。

したがって、文章がそのまま階層構造を持って完成するとは限りません。アウトライナーを使ったからといって、結果として出来上がった文書が階層性を持つとは限らないのです。

たとえば私のブログの記事の多くは「アウトラインっぽい」感じはしないはずです。明示的なアウトラインを持っていないのです。その場合、アウトラインはあくまでも編集の過程(プロセス)の中で書かれたものを把握し、操作するために使われます。

一方、この記事はシンプルながらアウトラインを持っています。記事の長さと目的からそれが必要だと判断したからです。また、ブログでも敢えてアウトラインっぽさを強調する記事もありますが(最近だとたとえばこの記事とか)、それはそうしようと思ったからであり、ツールとしてアウトライナーを使ったからではありません。

アウトライナーの自由さ、柔軟性があまり理解されないことを以前から不思議に思っていたのですが、そもそも「結果(プロダクト)としてのアウトライン」と「過程(プロセス)としてのアウトライン」という同床異夢だったのだと考えれば納得がいくような気もします。

そしてこの記事の本題から外れますが、私がアウトライナーを「プロセス型」と「プロダクト型」に分類する理由は、このことと無関係ではありません(プロセス型アウトライナーとプロダクト型アウトライナーについては「アウトライン・プロセッシングミニ入門」を参照してください)。

最後に。もちろんですが、私の主張に関わらず、アウトライナーに自由さ、柔軟性を感じない人がいても、それは当然のことです。

*1:「Outliners Considered Harmful」というのはもちろん、Edsger Dijkstra(エドガー・ダイクストラ)による「Go To Statement Considered Harmful」のもじりです。

*2:Ecco Proは90年代のWindows用アウトライナー。当時のRosenbergが愛用。

*3:今日ではタグ機能を備えたWorkFlowyやDynalist、カラム機能を備えたOmniOutliner、そしてまさに「階層構造と編目構造の融合」を実現しているRoam Researchがありますね。

*4:「Text on Rails」はもちろん「Ruby on Rails」のもじりでしょう。