道具と方法論を持たなかった父の断片への敬意

父の遺品を整理していて、父が膨大な量の文章を書き残していたことを知る。

正確にいうと、文章というよりも文章の断片。書こうとした論文の原稿、書こうとした本の原稿、やろうとした翻訳の原稿、まとめようとした考察の原稿、その下書き、メモや覚え書き、そして資料。

父がこれほどの知的活動をしていたことについて、あるいは知的活動への意思を持っていたことについて、今さらながら衝撃を受ける。

でも父は、完成したアウトプットを何一つ残していない(ぼくや母が知るかぎり)。

膨大な断片を眺めているうちに、意思はあっても方法論を持たなかった父の知的活動が、その量と複雑さと流動性の前に破たんしたことが、ありありと感じられる。

父がアウトライナーを持っていたらと思う。

アウトライナーじゃなくてもいい。書こうとしたことや考えたことの膨大な断片を取捨選択し、組み立て、位置づけることを助けてくれる、現代的な道具と方法論を父が持っていたら。

本当は、父の手元にはちゃんとそれがあった。

ぼくが結婚して家を出た後、ぼくが使っていた古いMacは父のものになった。

父は(評論家をしていた学生時代の友人に教えられながら)そのMacを使った。父の残したある時期の原稿は、EGWord による縦書き二段組で印刷されている。

そのMacには、EGWordの他にActaやInspirationやMOREが入っていた。ぼくを虜にした初期のMacのアウトライナーたちだ。その意味や使い方を知る機会を父は持たなかった。

とはいえ、仮にそんな機会があったとしても、父は興味を示さなかっただろうという気もする。父にとっての文章を書くことは、最初から最後までマス目を順番に埋めていくことだった。

EGWordはおそらく印刷・清書機械として使われていたのだと思う。それでも、自分の書いた文章が活字として印刷されることの喜びを父は感じていたはずだ。それを思うとなんとなく微笑ましいような悲しいような、微妙な気持ちになる。

そんなムズムズするような感覚にもかかわらず、父の残した文章の断片の量と混乱と意思に、ぼくは敬意を抱かずにはいられなくなった。

その敬意の正体を、ぼくは父にも母にも説明できない。アウトライナーにサポートされて、ここに少しだけ書けるくらいだ。