動画編集を眺めながら文章について考える

最近、動画編集ソフトのチュートリアル動画や比較動画をよく眺めている。たとえばFinal Cut Pro XとかAdobe Premiere Proとかそういうやつ(もちろんiMovieでも構わない)。

別に動画編集に目覚めたわけではない。

『書くための名前のない技術 case 3 千葉雅也さん』でのインタビューで、千葉さんは以下のように語っている。

千葉 手法としては映画なんですよね。ショットとショットの間を説明しなくても成り立っちゃうのが映画というものですよね。二人の人間の顔を順番に並べれば向き合ってしゃべってるみたいに見える。そういう効果をうまく使うと、それなりになってしまう。かなり映像的な発想でもあると思います。映像編集するような発想で文章のパーツを並べちゃうというのは、自分の中でありますね。

Tak. 映像的。なるほどそうですね。無理に滑らかにつなごうとしない。

千葉 並べたらつながるんです、絶対に。すごく意外なつながりでもゴダールみたいなカッコ良さになりますから。映像だったらよりはっきりするということで。

そういう目で動画編集ソフトを操作している様子を見ると、いろいろと示唆的だ。

この種のソフトはノンリニアビデオ編集と呼ばれているけれど、そこで行われているのは、撮影した動画の素材を切り出してきて、1本のリニアな時間軸の上に配置していくという作業だ。もちろん、動画はリニアにしかなりようがないからだ。

その「リニアにしかなりようがない」制約の中で、本来リニアになりようがないさまざまなモノゴト(時間とか空間とか視点とか意識とかその他の単純ではない何かとか)をいかに表現するかというのが、動画を編集する上でのミソなのだと素人的に理解している。

そして実はリニアにしかならないという点では文章も同じだ。どんなにノンリニアに考え、ノンリニアに操作したとしても(そのためのツールがアウトライナーやマインドマップや情報カードだ)、最終的にはリニアな「語り」に変換しなければならない。文章はリニアにしか書けないし、リニアにしか読めないからだ*1

その「リニアにしかなりようがない」制約の中で、本来リニアになりようがないさまざまなモノゴト(時間とか空間とか視点とか意識とかその他の単純ではない何かとか)をいかに表現するかというのが、文章を編集する上でもやはりミソなのだと(準)素人的に理解している。

文章は、時間の流れの中でリニアに語られ、リニアに読まれる。だから文章を書く作業とは、ノンリニアな思考をリニアな語りに変換する作業だ。そのことを念頭に、時間の流れの上に断片を配置していく動画編集の作業(そしてそのためのツールの機能と操作)を眺めていると、いろいろなことに気づかされる。

さらにその目で文章を書くためのツールを眺めていると、今までと違って見えてくることがたくさんある。

たとえばアウトライナーの「階層」に対する考え方について。

あるいはScrivenerでフラットな面の上にカードのメタファーで表現された断片を並べていく「コルクボード」の機能や、ひと続きのテキストを階層化することなく切断していく「分割」の機能について。

*1:文章のリニア性に挑戦する試みはいろいろあって、たとえばアナログであれば目次や索引や注釈、デジタルであればハイパーテキストと呼ばれる相互にリンクされたネットワーク型のテキストがあるのだが、それはここでは考えない。それに、そうしたものもリンクされたそれぞれのテキストの中ではリニアにしか書けないし、リニアにしか読めないはずだ。