クリアについて2018

ずいぶん長いこと、「クリア(clear)」というのが、個人的な生活と人生のキーワードみたいになっている。クリアというのは「明快な、はっきりした」というような意味だ。

年齢を経るほど、その重要性についての確信はより強いものになる。もちろん、自分がなかなかクリアになれないから、そう思うのだ。

「(いわゆる)タスク管理」をするのは何のためだろうと考える。

たとえば、効率的に物ごとをこなしたい。ストレスフリーに生きたい。大事なことにもっと時間を使いたい。そんな理由をすぐに思いつく。もちろん、そのどれもが正解だと思う。

でも、自分自身がクリアでありさえすれば、そのすべてが実現できる、とも思う。

だから「(いわゆる)タスク管理」の目的は、究極的には「クリアであること」なのだ。

クリアであるための大きなアウトラインを作っている。

「作った」と過去形でないのは、そのアウトラインが今もどんどん変わり続けているからだ(そのことについての長い文章を書いているそばから変わってしまうので、ちょっと困っている)。

クリアであってもお金が儲かるわけではない。
好きな人が振り向いてくれるわけでもない。
保育所に空きができるわけでもない。

でも、クリアであれば、必要なときに後悔のない判断をすることができる(「正しい判断」とは言わない)。

クリアであれば、心置きなく全力を尽くすことができる。

クリアであれば、間違ったときに他人や環境のせいにしないで悔し泣きすることができる。

そんなふうに生きてみたい。

そして、これらのことを教えてくれたのもまた、アウトラインだ。