倉下忠憲『すべてはノートからはじまる』について

倉下忠憲さんの新刊『すべてはノートからはじまる』が出た。発売一週間で重版も決まり、大変好評なようだ。

倉下さんのポッドキャスト「うちあわせCast」(Tak.はここに準レギュラー的に出演しています)で執筆経過をずっと聞いていたので、感慨深いものがある。

これは「ノート」の話なのか

「ノート」をここまで広く捉えたノート論は見たことがない。目次は以下のようになっている。

第1章 ノートと僕たち 人類の生み出したテクノロジー

第2章 はじめるために書く 意思と決断のノート

第3章 進めるために書く 管理のノート

第4章 考えるために書く 思考のノート

第5章 読むために書く 読書のノート

第6章 伝えるために書く 共有のノート

第7章 未来のための書く ビジョンのノート

補章 今日からノートをはじめるためのアドバイス 

すごく網羅的で幅の広いノート論という印象。

では、「第5章 読むために書く 読書のノート」を一段下の見出しまで開いてみる。

読むことの不思議な力

建設的に読み替える

ノートとしての本

本を読んで他者になる

他者に運動してもらう本の読み方

丁寧に読み進める

予想してから読む

他者に説明する

粘り強くしかし固執せず

内容をまとめる

読書活動にノートを利用する

読むためのリスト

自分の実験と方法

読書を動機づける

記録の相転移

完全には至れない僕たち

不完全でありながらも

考え続けること読み続けること

うん?

すごく面白そうだけど、ちょっと見ると「ノート」の話には見えない話がたくさん入っている。これは「ノート論」というより完全な「読書論」ですよね。

どうしてノートの本に読書論が出てくるのか。実はこれは「書き手にとっても読み手にとっても本はノートである」という立場で語られているんですね。そう聞いて「本がノート?」とワクワクするタイプの人は、きっと本書はとても刺さる。

ちなみに本書(紙版)はすべてのページにノートの罫線が印刷されていて、日付を書く欄までついている。ちゃんと「ノートの形をした本」になっている。そういう遊び心は楽しいし、その遊び心が単に遊びではなく内容と結びついている。

他の章も同様に、「ノート」を通じて、あるいは「ノート」を入り口に、いろんなところに伸びていく。アウトライナー的に言えば、ノートを中心に置いて、下位階層に降りたり上位階層に上がったりする。

それらは一見して「ノート」の話に見えない場合もあるのだが、総体としてノートの話になっているし、これが「ノート」の話であるというその位置づけ自体が、本書のメッセージにもなっている。

これは「技法」なのか

本書では、ノート論にぶら下がるようにしてノートの技法が合計48個提示されているのだが、この「技法」に関しても、ここまで広く捉えた実用書・ビジネス書はあまり見たことがない。

まず、通常の実用書では「技法」が見出しになっていて、その内容が解説されることが多いと思うのだが、本書ではノート論が展開され、その中から技法(になり得る何か)が抜き出される形になっている。

その「技法」の内容も一筋縄ではいかない。

まず、いくつか「名前のない」技法がある。技法に番号はついているのだが、名前がない。「名前をつけてみてください」と書いてあるだけ。これは、『書くための名前のない技術』シリーズの作者(ワタシです)としては大変共感するものがある。

そして技法の内容。「ノート」の技法と言われたら、普通はノートの書き方とか作り方とか使い方とかそういうものを思い浮かべるでしょう。

もちろんそういうのもちゃんともある。

技法17 着想ノートに思いを書き留める

技法18 ラジアル・マップで連想を引き出す

技法20 書いたノートを別人として読み返す

でも、こういうのもある。

技法27 考えるための静かな場所を持つ

技法31 他の人に読んだ内容を説明してみる

技法38 考えを中断し実行に移す

これはいったい「ノート」の技法なのか? と思うかもしれない。

これらを「ノート」の技法として提示していること自体が、やはり本書の重要なメッセージになっている。なぜこれらが「ノート」の技法なのかは、本書を読んで確かめてほしい。ノートをめぐる認識が少し変わるかもしれない(たとえば「インプット」と「アウトプット」が別の行為だと思っている人は)。

知的○○

全編を読みながら感じていたのは、このレンジの広い「ノート」という言葉は、そのまま別の言葉に置き換えられるのではないかということだ。

倉下さんは梅棹忠夫の『知的生産の技術』についてしばしば言及する。著書の中でもブログ記事でも。「うちあわせCast」でも、『知的生産の技術』という書名が一度も出ない回の方が少ないのではないかと思う。

『知的生産の技術』は50年以上も前の本ではあるけれど(初版は1969年7月)、「知的生産の技術」的なものは今も、というよりも今だからこそ切実に必要とされている。そんな話を「うちあわせCast」でよくしている。

でも現代の「知的生産の技術」のあり方について考えるのは容易なことではない。

「知的」という言葉ひとつとっても、現代では拒絶反応を生みかねない。そして拒絶する気持ちはよくわかる。ぼくだって「知的生産」という言葉がしっくりきたことは一度もない。

「知的」に変わる言葉がないものか? というテーマで「うちあわせCast」の1回分を費やしたこともたしかあったと思う。

まして動画とSNSとAIの時代に、個人の「知的生産」がなぜ必要か、そしてそれはどのように行われ得るのか。それをどのように伝えるか。

……という背景の中で、『すべてはノートからはじまる』を読んでいて思ったのは、この本は『すべては知的生産からはじまる』にタイトルに変えても通用する内容になっている、ということだ。

本書の末尾近く、「第7章 未来のために書く ビジョンのノート」に以下のような一文が出てくる。

現代において、なぜノートを書くのか。その意義を改めて確認する準備が整いました。

これをそのまま「現代において、なぜ知的生産なのか。その意義を改めて確認する準備が整いました。」と読み替えた上で、続く

何度もやろうとして、何度も失敗し、しかしそれでもやろうとする行動があるとするならば、それは自分について何かを明らかにするのではないでしょうか。貪欲なビッグデータは、しかしそうしたものに興味を持ちません。彼らが視線を向け、必死に貪り続けるのは立ち現れた行動という結果だけであり、どれだけ情報が集まっても、ビッグデータが「あなたは誰なのか」を知ることはありません。

 からの

ノートを使い始めるとは、そのような環境から一歩身を引くことを意味します。とは言え、完全に離別するわけではありません(そんなことは不便すぎて続かないでしょう)。便利なITツールに囲まれているにしても、それとは違う理りが働く場所を設けるのです。それが、現代でノートを書くことの一番の意義です。

これらは、現代において、なぜ「知的生産」ななのかという問いに対する(現時点での)倉下さんの回答になっているのではないか、と個人的に受け止めた。

誤解を避けるために書いておくと、「うちあわせCast」最新回で「ノート論の皮をかぶせて〈現代の知的生産の技術〉を書く意図があったんですか」と直接確認したところ「ぜんぜん考えもしなかった」とのことだった。

本はノートなのだから

本書は知識やテクニックを直接インストールするタイプの本ではない。

ざっと読んで「ポイントだけ」つまもうとしても意味がないとまでは言わないけれど、おそらく本来得られる収穫は得られないのではないかと思う。

できれば最初からじっくり順を追って読んでいってほしいと思う。本はあなたのノートなのだから。

 


この記事は、「うちあわせCast 第七十六回:Tak.さんと『すべてはノートからはじまる』について」のために作ったメモ用アウトラインを元にしています。この回では『すべてはノートからはじまる』とその周辺のお話について倉下さんと1時間以上語ったので、よろしければそちらもぜひ。