ブログのタイトルをつけることも苦手だし、Evernoteのノートにタイトルをつけるのも苦手。そして何よりも概念(コンセプト、アイデア)に名前をつけることが苦手。
苦手というだけでなく、簡単に名前をつけてしまうことに強い抵抗感がある。
もちろん概念を流通させるには名前をつけることが必要だということはよくわかる。でも苦手。それはもしかしたら、今のような活動をしていくあたって致命的なのかもしれない。
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例外的につけた名前が「シェイク」だ。シェイクとは「アウトライナーを使ってトップダウン思考とボトムアップ思考を意識的に行き来すること」。
名前をつけようと思ってつけたわけではない。
- 以前からアウトライナーの中で文章を「揺さぶる」ような感覚を持っていた。
- その感覚を「アウトライナーの中でシェイクする」と呼んでいた。
- 『アウトライン・プロセッシング入門』を書きながら「アウトライナーの有効性を活かすにはトップダウンとボトムアップを意図的に行き来するのがいい」と説明するのが最適なのではと思った。
- 「ひょっとして、それをシェイクと呼ぶのではないか」と思った。
という順番だった。
つまり「概念に名前をつけた」のではなく、名前が先にあって、思いついた概念がその名前にふさわしいのではと思ったのだ。
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シェイクという名前をつけてしまったことに罪悪感のようなものがあった。
そもそも同じようなことを言っている人は以前からたくさんいた(だからこそシェイクは「アウトライナーの中でトップダウンとボトムアップを行き来すること」と限定した)。
アウトライナーに限定したところで、それは特別なことでも何でもない。アウトライナーの機能を素直に使えば無意識にそうしてしまうようなことに過ぎない。
そんなものに名前をつけてしまうことへの罪悪感。
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シェイクという名前がなければ『アウトライン・プロセッシング入門』で伝えたかったことも半分も伝えられなかったかもしれないと思うし、シェイクという名前があるからこそシェイクについて人と話せるようになったとも思う。
結果的として「シェイク」は自分が思っていたよりもずっと広い射程を持つものだということもわかってきた(いや、だからこそ同じようなことを言っている人が以前からいたのだが)。
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「自分が考えたようなことは別の誰かが必ず考えている」からこそ、付けた名前はまだ見ぬ誰かとの共有物兼交信手段みたいなものだとも思えるようになった。
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猫に関しては名前は大量に思いつくのだが適切な猫がいないので名前のストックだけが増えていく。