修士課程にいた頃、週1回の研究会の後によく二人で飲んでいたFくんという人がいた。
年は少し下。研究会に来ていた他の研究室の後輩、みたいな関係だったと思う。ちなみによく二人で飲んでいたとさらっと書いたけど、ぼくが人と積極的に飲みに行くというのはよほどのことだ。「いくら話していても飽きない」という感覚は、本当にひさしぶりだった。
Fくんと話していたのが主に村上春樹の話だった。
もともとは研究会で村上春樹がテーマになって、そのときの議論が終わらずにそのまま飲みに行ったのがきっかけだったのだが、結局彼と飲むときの話題は常に村上春樹になった。
村上春樹についてそれまで人に話したいと思ったことがなかった。あんまりいい結果になったことがないから。「村上春樹について人と話すことは難しいですから」とFくんは言った。
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Fくんと話すことはたいへん楽しかったけれど、一方では終始圧倒されていたとも言える。話していて、目を開かれるような思いを抱いたことが何度かあった。
中でも覚えているのは、ぼくが必然性を感じられず違和感を抱いていた当時の最新刊『ねじまき鳥クロニクル』の暴力的な描写について話したとき。Fくんの話に、まったく予想外の角度から光を当てられて瞬時に鮮やかに視界が開けたような気がした。
今なら「アウトラインの階層がひとつ上がったような」と表現すると思う。
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その後ぼくは中退して就職し(正確には結婚して就職して休学して中退し)、Fくんとはその後一度も会っていない。
何年も後になって、ある村上春樹研究本の執筆陣の中にFくんの名前を発見した。いつも飲みながら話していたことを、彼はその後も考え続けたのだと思った。
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Fくんにひとつだけ褒めてもらった記憶があって、それはアウトライナーの話だった(←)。
いや、そのときもやっぱり村上春樹の話をしていたのだ。
個人的なアウトライナーについての感覚と、村上春樹の読書体験とはかなり深く関わっている。当初それは単純に断章形式がアウトライナーっぽいという感覚から始まったのだが、本当はもっとずっと複雑なんだということにやがて気づいた。アウトライナーは断章を組み立てるだけの、構築するだけのものではない。断章形式から離れても村上春樹は依然としてアウトライナー的だ。その「アウトライナー的」とは何かということについてまだうまく説明できないけど、精いっぱい言葉にしてみると……みたいな話。
それに対してFくんは「たぶん、同じようなこと考えてますね」と言ってくれたのだった。いや別に「褒められた」わけではないね。
でもそのときは気づかなかったけれど、今考えるとそれはあの(目を開かれるような気がした)暴力描写の話とつながっていて、Fくんはたぶんそのことを言っていたのだ。