効率がすべてではないことを効率悪く表現する

効率がすべてではない。

なんて言うとあまりにも陳腐に響くので口にする気にはならないけれど、それはとても重要なことだ。

効率を追求することで削り落とされるものの中には、時に非常に大切なものが含まれている。

もちろん、効率が重視される場で効率を追求するのは当然のことだけれど、世の中にはそうではない場もある。

最短で到達すべき目標がない。
方法論や思考過程に正解がない。
人々が試行錯誤つつ実践し、意見を交わしている。
誰も急いでいない。

そういう場に、効率が重視される場の論理を誰かが持ち込んで、大事な何かを削ってしまう。それが起こったことで場が変質してしまい、残念に思いながらその場を離れた経験は何度もある。

「到達すべき目標がなく、実践や方法論に正解がなく、そこでみんなが試行錯誤しつつ実践していて誰も急いでいない場なんてものが本当にあるのか?」と思った人に、その感覚を説明することは難しいけれど。

たとえ話。

フリーライティングというのは極めて効率の悪い行いだ。

20分間のフリーライティングのうち冒頭10分はまったく役に立たないが、後半10分でスイッチが入って「使える」アイデアが出てくるということがある(すごくよくある)。

そのとき「20分のフリーライティングは無駄なので効率化のため10分に制限します、そのかわり冒頭から確実に使えることを書くよう心がけましょう」という提案を誰かがしたとする。

そもそも使えるアイデアは実質10分で出てきているのだし、同じ成果を20分で出すより10分で出す方が良いに決まっている、とその人は言うかもしれない。

もちろん、その人は間違っている。前半10分が直接的には無駄だったとしても、それがなければ後半10分もまたなかったのだ。これはフリーライティングを真剣にやったことがある人なら実感できると思う。

いや、前半10分が直接的に無駄だったのかどうかさえ、実はわからない。

後半10分で出てきた「使える」アイデアを何かのアウトプット(たとえば文章)に仕上げるとする。

わかりやすく順番を入れ替え、語り口を統一し、形式を整え、ネタもちょっと交えてみたりする。

これでいいかなと思って読み返す。

読み返しながら待てよと思う。エンディングに、無駄だと思っていた前半10分で出てきたあの内容が使えるじゃないか、と。

結果的に、前半10分から切り出してきた数行が、完成した文章の中でとても重要な役割を果たすことになる。最初から意図したことではない。でもそれは、効率的な10分からは絶対に生まれようがない文章なのだ。

ちなみにここでの「効率」は、本来はある特定の場や状況での必要性から便宜的に追求されるものに過ぎなかったのに、いつの間にかそれ自体が目的化し、普遍的な「正解」とされてしまう何かの代表だ。