名前のない望み

現代の日本に生きていると、「夢」や「やりたいこと」を書け(言葉にしろ)と言われる場面がけっこうある。特に若い人にとってはそうだと思う。

でも、自分の「夢」や「やりたいこと」がうまく言葉にできないという人がいる。言葉にできないどころか、そもそもそんなものはないという人もいる。というか、本当はそういう人の方が多いのではないかという疑いを個人的には持っている。

ぼく自身が昔からそういう質問に悩まされてきたし、適当な「夢」を答えて後悔したこともある。新人研修の担当になって自分自身が新入社員に「夢」を書かせるハメになってうんざりしたこともある。

ぼくたちの望みの多くは言葉にできる形なんかしていないのではないか。「夢」や「やりたいこと」として具体的な言葉にできる望みの方が、むしろ例外なのではないか。

望みの多くには名前がないのだ。

毎年年末年始に、フリーライティングの形で自分の願望や欲求について書きだすということをしている。他人に見せることを前提としない、自分の頭に浮かんだことを記録し、確認するためだけの文章(みたいなもの)。

それを読み返していて気づくのは、少なくともぼくの場合、望みの多くは名前がつけられるような具体的な行動や成果なんかではなく、ぼんやりした「情景」の形で存在しているということだ。

フリーライティングでくり返し出てくるのは、夕暮れの坂道を下っているイメージだ。

一日の仕事を終え、買い物ついでに駅前のいつもの喫茶店でお茶でも飲もうと家を出たところ。喫茶店では妻と待ち合わせている。駅は長い坂道を下ったところにある。

そんな情景。

たぶん、それがぼくの「夢」なのだ。それは「夢は?」とか「やりたいことは?」と問われるときに期待される内容ではない。

「夢」や「やりたいこと」がうまく言葉にできないという人の中にも、この種の「情景」ならあるという人はいるんじゃないかと思っている。

そういう人になら、そんな「情景」を手に入れることが、名前のある「夢」を実現することよりも簡単なわけでは決してないこともわかってもらえる、と思う。