努力して身につけた「ああいうもの」的な振る舞い

報道などで、ある集団の上下関係の中で生起する構成員の醜悪な振る舞いが明るみにでる。それを見て「ああいうものにはなりたくないな」と思う。

でも往々にして、その「ああいうもの」的振る舞いは自ら努力して身につけたものだったりする。生きていくために環境に適応しようとした結果だ。

芸能界や政界やプロスポーツ界のそれが大々的に報じられることが多いけれど、一般人にも決して無縁な話ではない。学校の運動部でも企業でも各種団体でも、いくらでも目にすることだ。

新人に、その世界の常識として教え込まれる振る舞いがある。そこで生きていくために新人たちは必死になってそれを身につける。その過程は往々にして苦しく理不尽だ。

それに耐えて推奨される振る舞いを身につけることに成功し、集団の中に居場所を確保した人間はその経験を「大変だったけど糧になった」とか「成長させてもらった」などと言う。

実際、それは社会で役に立つ。学生時代にその種の振る舞いを叩き込まれた人間が企業に歓迎される、などということも分かりやすく起こる。

特定の集団内のことに限らない。

今はあまり言われない(と信じたい)けれど、「据え膳食わぬは男の恥」ということわざがある。

もし意味を知らない人がいたら調べてほしいけれど(その者たちは幸いだ)、かつて女性に対して積極的でない男性は、人生の先輩にこの言葉を持って諭された。「そんなことでどうする、お前も男なら──」というアレだ。

個人的な経験では、「据え膳を前に何もできない奴は仕事でも使えない」とすら言われたことがある。

その言葉に発奮して自分を変えようと「努力」し、そういうタイプでもないのに結果的に醜悪な振る舞いをしてしまった男性は、おそらく無数にいる。

もちろん、(広い意味での)恋愛のプロセスの中で「据え膳を食う」と表現されるところの積極性・能動性を発揮するべき状況(あるいは相手の積極性・能動性に応えるべき状況)があることはたぶん事実だ。でも、そんな状況はそれほど頻繁には起こらないし、まして今の状況がそれであると判断するのは決して簡単なことではない。

そしてその判断には他人のライフと身体の領域に進入するにあたっての自覚と責任が伴う。冗談と軽いノリのうちにあってもそれができる人をオトナというのだ。

その判断の難しさと自覚と責任について、例のことわざは述べていない。だからこそ力をもった集団内上位の男性に(あるいはその種の振る舞いが躊躇なくできる男性に)都合のいいように解釈され、利用されてきたと思う。

社会や集団の一員となり、認められるために身につけようと努力してきた振る舞いの中に「ああいうもの」的なものが含まれているかもしれないことは、意識しておいた方がいい。こんなことを書いている自分だって、決して「ああいうもの」性と無縁に生きてきたわけではない。